記憶をたどって山手線の思い出を書く その4
前回のはなし
「おばあちゃんの巣鴨」を抜け、「山手線の地味な方」を予想以上に堪能した筆者達。時刻はちょうどお昼時、お腹を空かせた筆者達は駆け足で上野へ向かうのでした。
上野といえばアメ横!ということで、お昼はアメ横で済ませることに。
個人的には海鮮丼で有名なみなとや推しだったのですが、ここでまたしてもゆうじナビが発動。友人にオススメされたというお店(名前忘れた)に行くことになりました。
内装はシックでお洒落!店内にはゆったりとしたジャズが流れており雰囲気もよし!ただ、上野感はゼロ!
そんな感じのお店でした。
そこで頂いたのは、なめろう丼。なめろう初体験だったのですが、ネギトロとそんなに変わらないですよね。後、よくもまぁ魚をこんなにするまで叩くなぁと思いました。あ、味は無難なものでしたよ。
お腹を満たし、もう絶対このお店には来ないぞ!と心に誓ったところで次の目的地、御徒町駅に向けて出発です。
御徒町はサラッと抜けたのですが、「2k540 AKI-OKA ARTISAN」という通りに寄ったので紹介しておきます。
■ 「2k540」とは
鉄道用語では東京駅を起点とした距離「キロ程」で場所を示します。当該施設は2k540m付近にあるため「2k540」とし、呼びやすく親しみやすいように、読み方を「ニーケーゴーヨンマル」としています。
■ 「AKI-OKA」とは
秋葉原駅(AKIHABARA)と御徒町駅(OKACHIMACHI)の中間に位置していることと、秋葉原-御徒町駅間の高架下に人の流れをつくりたいという思いを込めて私たちが作り上げた造語です。
■ 「ARTISAN」とは
フランス語で「職人」を意味しています。
ネーミングセンスはさておき、伝統を重んじるコンセプトっていいですよね。何かと西洋カッケーとされる風潮ですが、日本文化の持ってる繊細な一面は世界でも通じるジャパニーズクールだと思います。
さて、そんな日本伝統を満喫した筆者達一行は、今を代表するジャパニーズクール「電気とオタクの街」秋葉原を目指し、歩き始めるのでした。
その5に続く。
記憶をたどって山手線の思い出を書く その3
前回のはなし
池袋駅に到着し、ついに山手線一周がスタート!次点の大塚駅に行くまで思わぬ時間をとられてしまった筆者達一行であったが、別段ペースをあげることなく「おばあさんの原宿」こと巣鴨に向かうのでした。
冒頭からこんなこと言うのもなんですが、その3まで書いてまだ巣鴨って、後どれだけ書けばいいんでしょうね。気が遠くなります。
さて、巣鴨への道中なのですが、とにかく住宅街を練り歩きました。特徴がないといってしまえばそれまでですが、僕はあの地味で閑静な住宅街が割りと好きです。本当に何もないけど。
そして巣鴨に着き、記念撮影。
あ、そういえば前回の死んだ魚の目をした画像は、巣鴨のものでしたね。大塚駅でも撮った記憶はあるのですが、同居人のFacebookには投稿されておりませんでした。撮り忘れてしまったのかもしれません。
巣鴨の感想としては、思った以上に老人がいませんでした。もっと、こう、竹下通りのJKくらい老人がいると思ってたんですが、予想に反して若者の割合も高いように感じました。まぁ、老人の町だけだったら数十年後は過疎化、…というかゴーストタウンですからね、寧ろ若年層は必須です。
さて、この辺りから、通称「山手線の地味な方」に突入しました。駒込、田端、西日暮里、日暮里、鴬谷…と続き、ようやく上野で勢いを取り戻す感じでしょうか。
話は若干逸れますが、若かりし頃の両親は駒込と西日暮里に住んでいたそうです。「昔は何もなかったけど、今はどうなんだろうね」と声を揃えて言っておりましたが、多分変わってないよ。
父も母も「地味だったねぇ…」と嘆いていましたが、息子的には「渋谷のディスコでフィバってたわwww」とかいう両親じゃなくて心底よかったです。
しかし地味な方でも、印象に残っている場所があります。
僕は shishi yamazakiさんの「YA-NE-SEN a Go Go」で存在は知っており、それなりにハードルは上がっていたのですが、実際に行ってみると悠々とハードルを越えてゆきました。
東京で一番住みたい場所かもしれません。
谷中銀座商店街は人も多く、栄えているのだけど騒がしくなくて、ちょうど良い感じです。また、よいしょよいしょで古き良き日本の町並みが残っていて、歩いてるだけで楽しくなりました。
近くにあった霊園も落ち着いていて居心地が良く、春の陽気もあいまって非常に気分がよかったです。加えて緑も多く、春は桜の名所になるそうです。素晴らしいですね。徳川某かの墓もあるし、歴女のみなさんにもおすすめです。
そしてこの時、時刻はちょうどお昼時。
谷根千を抜け小腹がすいてきた4人は、隣の隣である上野駅周辺でお昼ご飯を食べる計画を立てました。
谷根千から上野までは大体2キロ。途中の鴬谷のラブホ街を横目にみつつ、筆者達は足早に上野に向かうのでした。
その4へ続く。
記憶をたどって山手線の思い出を書く その2
前回のはなし
2012年12月「山手線を一周しない?」という軽率な発言から企画が進み、胸を弾ませる住人たち。そして3ヶ月の空白期間を経て、ついに4人の(暇だった)住人によって山手線一周が敢行されたのでした。
やはり、というべきか。4人は出発時間を大幅に過ぎて起床した。(数時間単位で寝坊していたと思う)
そして僕はなぜか半ケツにされており、カメラのシャッター音でようやく目が覚めました。
余談ですが、その半ケツ画像は撮影者のFacebookにあがっており、今でも彼がなんでそんな行動をしたのか理解に苦しみます。しかし、予想以上に自分のケツがセーフティなことに気付けたのは思ってもみない収穫でした。
時刻は9時。
今は懐かしいヴァルハラ東館(現・グリーン大山)の前でラジオ体操を済ませ、ようやく出発です。
本当の出発地点は池袋駅なので、そこまで歩いていきました。
天候は晴れ。
予想以上に春めいていて、散歩日和のお天気でした。
かくいううちに池袋駅到着。山手線一周のスタート地点までやって参りました。
そしてここで小イベントが発生。
到着した駅ごとに記念撮影をする、というものでした。
「自撮りもアレだから撮ってもらう?」と、そのへんにいた人に頼み、撮ってもらったのはいいものの、
予想以上に恥ずかしく、これ以降すべて自撮りになったのも良い思い出です。
また、この時「記念撮影は全て真顔でする」という謎ルールも生まれたのでした。
さて、いざスタート!ということで次に向かったのは大塚駅。
今グーグル先生に聞くと、池袋駅〜大塚駅間は徒歩24分ですが、当時は1時間ほどかかった記憶があります。というのもおそらく、ゆうじ君のナビに従ったせいでしょう。
しかし序盤も序盤。
みんな寛大な心を持っていた池袋〜大塚間ですので、大したいざこざもなくお隣大塚駅に到着しました。
そして恒例の記念撮影を済ませ、軽やかな足取りでジジイババアの原宿こと巣鴨に向かったのでした。
大塚駅で記念撮影
今見るとアレですね、みんな目が死んでます。
その3に続きます。
記憶をたどって山手線の思い出を書く その1
前回の更新からなんともう9ヶ月も経つんですね…、という長ったらしい前置きは置いといて、
今日は山手線を一周した思い出をなんとか捻り出しながら書きたいと思います。
池袋から大塚、巣鴨…と山手線を時計周りに踏破するこの企画は、なんと2年前の12月に企画されていたようです。
最初っからやる気を感じられないこの企画ですが、それから3ヶ月経った3月16日、マッチの長野帰省が決定したため、4人のマカロニ住人によって急遽敢行されたのでした。
(その2に続く)
23歳になったった。
皆様お久しぶりです。
一日過ぎてしまいましたが、昨日で23歳になりました。お祝いの言葉をくださった方々、ありがとうございました。
20歳を過ぎてからというもの、すっかり誕生日の価値が薄れてしまったように感じます。「大人に近づいた!」と喜べたのも数年前までで、今はもう「オッサンに近づいている」としか考えられません。10年後は「やべーよ、もうじきジジイだよ」とか言ってんでしょうね。
それにしても、この間まで高校生だったのに、思えばずいぶん遠くまで来たものです。
重たい腰を持ち上げてブログを書いてみたものの、別段書くべきものもないので数年前の記憶に残っている話を書こうかと思います。
「鶏肉を食べたとするじゃない、それは何になると思う?」
親友のお見舞いの帰り道、親友のお父さん(ひでおさん(仮))からこんな問題が出されました。
突然の質問にビックリしたのと、意図がまるで分からなかった僕は、馬鹿正直に、
「…筋肉?」
と答えました。すると、ひでおさんは
「他には?」
と言いました。これまた僕は正直に
「…血?」
と答えました。
「そうだね。他にある?」
返答に困った僕は苦し紛れに
「骨」
と言いました。
ひでおさんは「そうだよね」と言って、少し笑いました。
そして、問題の意味も分からず悶々としている僕を見て、ひでおさんは続けました。
「全く違うものなのに、今は筋肉なり、血なり、骨なり、自分の一部になっているってさ、不思議だよね。…そう思わない?」
「はい…思います」
そう言った所で車は長いトンネルに入っていきました。
病院から家までは50kmくらい離れていて、山を幾つか越えるので、長いトンネルをくぐらなきゃいけません。等間隔で設置されたランプは、車と同じ速さで流れていきます。
鳥を想像して下さい。
豚を想像して下さい。
牛を想像して下さい。
手のひらを見て下さい。それらはすでにあなたの一部になっています。
僕は今でも不思議だなぁと思ってしまいます。
「でもそれはね、食べ物だけじゃないんだよ」
トンネルを出てちょっとした後、ひでおさんは続けました。
「聴いたこと、見たこと、感じたこと、楽しかったこと、…悲しんだことだって自分の一部になるんだよ」
僕は無言でした。
「…だからね、俺は今みたいな状態もきっとアイツにとって、アイツのためになってるんだと思うよ」
この言葉は、親友の闘病生活を肯定しているようにも、ひでおさんが息子の運命を肯定しているようにも、久々に親友に会ってナーバスになっている僕を励ましているようにも聞こえました。とてもあったかい言葉だなぁと思ったのを覚えています。
そして最後にひでおさんは
「頑張れよ」
と僕に言いました。
オチもないですが、話は以上です。
強烈に思い出したので書いてみました。
あ、身の回りにいる6月6日生まれの方、誕生日おめでとうございました。
ちなみにその親友も、6日に23歳になったそうです。
奇しくも同じ誕生日。変な縁もあるものですね。
カンボジアに行った。
シェムリアップから2時間半、ベンメリア遺跡に向かう道中は、野原が広がり、想像通りの田舎だった。
道をひた走るトゥクトゥクは、風が吹き抜けてとても気持ちいい。日本にもあったらいいのにと思った。
すぐ横の草原には牛がいて、みんな休むことなく草を食べている。
どうしてか、カンボジアの牛は、みんな痩せていた。
アンコール遺跡が群立しているシェムリアップは、カンボジアきっての観光名所だった。
それぞれの遺跡は、細かい装飾が彫られていたり、下水路なども整備されていて、よくも石だけでここまで作れるなぁと感心しっぱなし。時間の経過で崩壊したり、破壊されたりしていたけど、どの遺跡も立派で見惚れてしまった。
ベンメリア遺跡の崩れ方は特に激しくて、ガイドさん(ガイドって言っても勝手についてきた人)が、「ベンメリア遺跡は、木々の成長のせいで崩壊してしまったんだよ」と言っていた。どうりで遺跡から樹が生えているわけだ。
シェムリアップの魅力は遺跡だけじゃなく、個人的にパブストリートという通りが好きだった。飲食店のオープンスペースや、雑貨屋が通りの両脇に並び、その脇にフットマッサージ店がちょこちょことある、主に観光客向けの通りだ。
まだ陽が沈んでいない時間に、開放感のあるお店で、ビールを飲む。ああ、幸せ。大人達が正月に昼間からお酒を飲む理由が分かった気がした。お洒落なジャズが流れており、それがまた心地よかった。
パブストリートにはシェムリアップに滞在した5日間のうち、毎日通ったと思う。そのくらい好きだった。
(※余談 いつだったかは忘れたが、宿で出会った人と宿のトゥクトゥクドライバーと、パブストリートにある欧米人向けのクラブへ行った。そう、夜なってもパブストリートは賑やかなのだ。しかし、欧米人向けのクラブへ行ったものの、日本人の僕らは欧米人の圧力にタジタジになってしまった。僕は最初、隅っこの方でフラフラと踊っていたものの、「これでは日本がヤバい」と思って、一人で欧米人のスペースへ突っ込んで行った。そこでどうにかジャパニーズスタイルを見せつけてやろうと思った結果、僕は侍の殺陣のような動きを取り入れることにした。しかし、銃しか知らない彼らにしてみたら僕は腕をクネクネと動かしているだけの変な奴だった。次に、忍者の動きを取り入れて踊ってみたが、これも全く見向きもされない。むしろ忍術手印が彼らには銃に見えたらしく、「Bang!」と撃つ真似をしてきて「マジなめんなよ」と思った。(今思うとノってきただけなんだけど)「もうこうなったらやるしかない…」と、僕はついに螺旋丸を取り入れた。するとどうだろう、一人の外国人が言った。「yeah, NARUTO!You are cool!」「・・・やっぱり日本の漫画は凄い」そう痛感した瞬間だった。)
それに比べてプノンペンは、街全体がかげっていて、薄気味悪かった。
バスを降りた瞬間からトゥクトゥクのドライバーが客引きで争っていて、それも印象を悪くした。華やかなシェムリアップから移ったせいもあるかもしれない。
キリングフィールドとトゥールスレン博物館が、プノンペンで訪れた唯一の場所だった。
どちらも人が大勢死んだ、殺された場所である。
同行人曰く、このような死や悲劇にまつわる史跡を訪れる事を、ダークツーリズムと言うらしい。
どちらも観光地としては不思議なくらい静かだった。団体で来ている観光客達も、いつの間にか個人で行動してる人も多い。
フラフラと場内を歩いていると、日本でも同じような感覚を覚えたことがあるのに気付いた。
広島の原爆ドームと、沖縄のひめゆりの塔だ。どちらも静かで、肩にのっかるような圧力があって、けど、その感覚は全く苦ではない、そんな感覚。
個人差はあると思うけど、僕はこういう場所が嫌いじゃない。むしろ機会があれば、もう一度訪れたいなとも思う場所だ。多分、想像力豊かで、リアリティを感じられる人はそうじゃないんだろう。
シェムリアップとプノンペンは陽と陰、日なたと日かげ、光と影、そんな真逆のイメージだった。
マレーシアから続いてのカンボジア。
ここでは、自分が日本人であることを強烈に実感、というか痛感させられた。
どこへ行っても「あじのもとー、おかもとー、おにいさーん」
「私の名前は、えみこ。お兄さん、水買って」と、物売りの少女に言われた時は鳥肌がたった。
日本語を覚える事は悪い事ではないし、むしろ嬉しい。
けど、彼らは僕たちとコミュニケーションが目的じゃない。僕らが持っているお金が目的なのだ。
日本人=お金持ちのイメージは間違っていないだろう。現に、日本の大学生はトゥクトゥクドライバーの月収くらい、もしくはそれ以上にアルバイトで稼げてしまう。
自分より10個も年上のおっさんに媚を売られ、自分より10個も下の子どもが必死にモノを売って来る。
違和感だった。
今まで日本で感じたことのない、コレ違うだろ、という感覚だった。
この感覚は次の国、タイでも感じる事になる。
ベンメリアからの帰り道、仲の良さそうな兄妹が高床式の家の入り口に座り、遊んでいた。
ちょうどその家の横を通り過ぎる時に、お兄ちゃんと目が合った。
シェムリに来て、子どもと目が合うと多くの子が笑顔で手を振ってくれる。
僕は、その兄妹も同じように笑顔で手を振ってくれるのだと思っていた。
しかし、彼はそれまで仲良さそうに遊んでいた妹の髪の毛を掴み、
「Look, her」と叫んでいた。
僕は思わず目をそらしてしまった。
トゥクトゥクを抜ける風は、大体が生ぬるいが、時折涼しい風が抜けて行く。
この旅と、少しだけ似ていると思った。
ベンメリアからの帰り道、トゥクトゥクに揺られながら、考えた。
カンボジアの牛は、どうしてかみんな痩せている。
人のせいか、土地のせいか?
しかし、放牧だからストレスもなさそうだし、草も生い茂っている。
結局、痩せている理由は分からなかった。
しかし、旅から帰ってきて、この記事を書いていてふと思った。
カンボジアの牛は痩せてるのではなく、彼らが本来の姿ではないかと。
カンボジアの牛は思っているのかもしれません。
「日本人は、人間にしてはブクブクに太っているなぁ」と。
マレーシアに行った。 その3
4月16日、無事日本へ帰国しました。
旅のブログを現地で書く、という目標は達成できず残念でしたが、これから旅の思い出に浸りながらゆっくりと書いていこうと思います。
というわけで、マレーシアに行った。最終章でございます。
思い返すと、マレーシアで一番印象に残っているのは、ツインタワーでも、マラッカの街並でもなく、マラヤ大学で過ごした事だった。
※マラヤ大学は、マレーシア随一の最高学府であり、世界大学ランキング(2009年)では180位にランクインしている大学です。ちなみに174位には筑波大学、171位には北海道大学がランクインしてます。ピンときませんね。このランキングの基準は分かりませんが、きっと僕の通っている某私立大より賢い事は間違いないです。(ちなみに僕の大学はランク外だぜ!)
さて、どうしてマラヤ大学が印象に残ったのか。
それは、外国人の学生がいる環境が新鮮だったから、だと思う。
日本の大学に通っていると、日本人以外の学生と話すことって殆どない。学部学科にもよると思うが、僕の通っている学科ではまずない。
そんな日本人で固められたコミュニティで過ごしていた自分にとって、違う言語、宗教、文化が当たり前のその環境は、とても新鮮で興味深かった。
彼らと話す度に、グワーーーッと自分の狭かった世界が広がっていく気がして、凄くワクワクした。その楽しさ故に、カンボジア・タイを回った後、再びマラヤ大学に来ようと本気で思ってたくらいだ。
それと、他愛も無いやり取りが印象的だったのも今思い出した。
確か、笑顔を絶やさないマレー人の子に「君は幸せそうだね」と(英語で)言うと、「なんで?」と言われた。「いや、いつもニコニコ笑っているから」と(英語で)答えると、
「なんで?あなただって笑っているじゃない。あなたは幸せじゃないの?」と言われ、ハッとした。
日本人は作り笑いをよくするという。僕はどっちだったのだろう。
印象に残った理由がもう一つある。
それは、韓国・中国、いわゆる反日国家と呼ばれる同世代の学生が超フランクだったこと。
去年、竹島や尖閣諸島の問題が露呈し、テレビやネット等のメディアで散々騒いでいた事を、これを読んでいるあなたも知っていることでしょう。
メディアの情報は、善悪問わず、知識として頭に入りこみ、いつの間にか影響を及ぼしていることがある。
僕は、メディアの言う事なんて鵜呑みにすまいと思ってはいたものの、案の定、韓国・中国に対して不信感を少なからず抱いてしまっていた。
そして、兼ねてからマラヤ大学には韓国人・中国人が沢山いると友人から聞いており、多少の不信感を抱いてしまっていた僕は、
「彼らは、どんな表情をして、何て声をかけてくるんだろう」
と、少し気になっていた。
しかし、実際に会ってみると
「よう!日本人なのか、俺韓国人だぜ!よろしく!」
と、彼らは実にフランクだった。
新しい価値観が構築される時はやっぱり気持ち良かった。
最後の晩、寮近くのフットサル場で、色々な国籍の学生が集まって一緒にフットサルをした。日本人、韓国人、中国人、キルギス人、ドイツ人、色んな国の人間がいたけれど、韓国と中国の学生に対して、不思議な感覚を覚えた。
「俺たちは同じアジア人なんだ!」 って叫びたくなる、不思議な感覚だった。
22歳になって初めて感じる感覚。なんとなく、嬉しかった。
そしてその帰り道、フットサルで茹で上がった僕の頭は、そんな感覚を浴びたせいか冷める事なく更にのぼせていき、結果、マレーシアで一番印象深い思い出になったのだった。
マレーシアに行った。終わり
マレーシアに行った。 その2
どうも。生きてます。無事カンボジアに入国しました。
現在シェムリアップからのプノンペンのため、カンボジアについて書きたい気持ちで一杯ですが、忘れないうちにマレーシアのことについて書きたいと思います。
同行している凜も毎日ブログを書いているみたいなので、そちらも是非どうぞ。
僕のブログより断然詳しく書いてあります。
AM6:00、 シェムリアップ行きの飛行機を降り、マレーシアの空気に触れた時、
「日本の残暑の空気だ」と、思った。
湿度が高く、体にまとわりつく暑さだが、早朝のせいかそこまで暑くない。
この時は「そんなに暑くないじゃ~ん」とたかをくくっていたが、数時間後、赤道直下のマレーシアの焼け付くような暑さにうんざりした。
入国審査をさらっと通過し、スタバで一休憩した後、空港から出ているバスでKLセントラル駅まで向かった。
KLセントラル駅では大学の友人であり、現在マラヤ大学(マレーシアで偏差値の高い大学)に留学しているヒトシと待ち合わせをしていた。
10:00にマックで!みたいな軽いノリで合流したのだが、正直言うと、僕は彼と合流するまでの過程が一番心配だった。
初海外、なおかつ僕の英語力は浪人センター時がピークだ。あれから3年、僕の英語力はスタバで注文するのにも戸惑うほどだ。
が、しかし。
迷わずバスに乗れ、駅に着き、「ロングタイムノーシー」と、これ以上はないくらいスマートな合流を果たす事ができ、そんな心配は杞憂に終わった。
合流してから彼には大学の寮に泊まらせて貰ったり、ゲストハウスを紹介してもらったり、他の国の留学生と話させてもらったりと本当にお世話になり、おかげでマレーシアの旅がとても有意義な時間になった。
ありがとう、ヒトシ。トゥリマカシ~ヒトシ~
ここまで書いて思いましたが、旅行一日一日を書く甲斐性が僕にはないので、かいつまんで書いていこうかと思います。
この旅で訪れた都市は、クアラ・ルンプールとマラッカの2箇所。
それぞれ日本で言うところの、東京、横浜といった感じ。
「マレーシアに行った その1」に書いてある通り、クアラ・ルンプールは予想していたよりずっと都会で、着陸時に機内から見えていたジャングルは何処にも見当たらなかった。
電車も5分~10分に1本は来るし、現地の人の身なりも清潔感があり、
「東南アジアは半ズボンに上裸だろjk」という僕の偏ったイメージとはかけ離れたものだった。
ツインタワーと、KLタワーも聳え立っており、タワーの根元には巨大なショッピングモールが根を張っていた。
しかし、郊外へ少し足を進めると、途端に自然(ジャングル)が広がっているのもKLの特徴かもしれない。
長野の田舎に新宿がある、そんなイメージで、多分、大丈夫。
マラッカには、現地(KL)で働いているS本さんという方に連れていってもらった。
というのも、幸運にもヒトシとカナエがS本さんと交流があり、ついた翌日に偶然にもマラッカに行く約束をしていたらしく、僕はそのおまけで行ける事になったのだ。
朝11時にマラヤ大学を出発し、KLからハイウェイに乗って約2時間、あっという間にマラッカに到着した。
マラッカは西洋風な街並みが印象に残っている。少し丘を登った所に教会的なサムシングが建っており、マラッカの街を一望できた。
丘の下には西洋風の建物とマレーシアの建物が乱立しており、街のはずれには海が見え、絵に描いたような風景だと思った。
そしてマラッカで食べた「ババニョニャ料理」がとても美味しかった。今のところ旅道中で食べた物の中で暫定1位である。
ちなみに「ババニョニャ料理」とは、マレー料理と中華料理が混ざったものらしい。
マレー系6割、中華系3割、インド系1割、以上の3つの人種で構成されているマレーシアならでは料理なのだと思った。
もうちょっとだけ続く
マレーシアに行った。 その1
一人クアラルンプール国際空港へ到着し、初海外に怯え、KLセントラル行きへのバスチケットを買うのにも戸惑い、「what?」を数回か繰り返した所で、
「チッ」
と、売り場のお姉さんに舌打ちされたのが6日前と思うと、マレーシア旅はあっという間でした。
今では「ハローハロー」と声をかけられるほど僕の英語も流暢になっています。
そして、now、今、僕はクアラルンプール国際空港の出国ゲート前でブログを書いています。後10分でゲートが開くので、どこまで書けるのか試されていますね。ひぃ~
超どうでもいいことなんですが、今回の旅は「神様」こと長谷川凜と行動をともにします。どうでもいいいですね。
後で具体的に書きますが、滞在したKLはとても過ごしやすく、最初のほうは海外に来たという新鮮さがありましたが、生活をしているうちに日本とあまり変わらないように感じました。
高いビルが屹立し、電車も5分間隔くらいで来るし、生活に必要なものは大抵手に入ります。
僕が想像していた東南アジア像と異なり少し残念でもあったけど、その反面でとても面白くも感じました。
ゲートが開いたので、ここいらで締めておきます。
続く
久々に充実した日を送れて満足した日
1週間ぶりに携帯の万歩計が500歩を上回った。
1週間、毎日10000歩以上を歩き続けるくらい難しい事だと思った。
前田敦子と布袋寅泰が起用されていて、見出しは「私は、私は、ビール」
「私も、私も、ビール」と書かない所に言葉のセンスを感じた。そういう言葉のセンスはどうやったら磨かれるのか。
某広告会社では、新人は有名なコピーを何百回も真似しろと教育されるらしい。お前のセンスは先人がとっくに淘汰しているよ、という事だろう。
天才画家が数え切れない程デッサンをしているように、僕もこのブログを書き続ければ彼らの次元まで到達できるのだろうか。甚だ疑問である。
今日はバイト先で、月に一度行われるピザパーティーに参加した。
オフィス内で行われるピザパーティーは、社員とアルバイトが入り交じり、普段話さない人との交流が目的だ。しかし、バイトの身分では、どうしてか社員さんには話しかけ辛い。
周りを伺うと、やはり社員さんが積極的にバイトに話しかけにいっていて
「さすが社会人だ(遊びの経験が違う)」と思った。
「誰とでも話せるようになる」という、今年果たすべき目標を作った。
社会に属する以上、コミニュケーションというのは必須だ。もしかしたら技術以上に求められているんじゃないだろうか。
価値観が違うから、群れるのが苦手だから、というのは言い訳だ。無理な人は勝手に絵描きでも目指せばいいと思う。
ちなみに「誰とでも話す」という裏テーマは「偏見を無くす。ステレオタイプを捨てる」である。素直な人になろう。
お酒を飲んだら僕は饒舌になる、と自覚している。
だから余計な事を書かないうちに、今日のブログをとっとと〆ようと思う。
ドロン。